HSPである理由〜私の場合〜
私は、小さい頃から外界に興味を示す、
好奇心いっぱいで、想像力豊かな子どもでした。
さらに、お友だちの気持ちに寄り添うことのできる、周りの幸せを心から願える、
いわば良い子でした。
思いやりのある子、になれ、
と親から言われて育ったので、そのように育ったのでしょう。
一方で、引っ込み思案な子、と言われることも多かったのです。
学校の先生は、苦手なものに向かわせようとします。
あえて目立つポジションを選ぶように指導され、
私も本意ではないながら頑張ったものです。
今の時代なら個性を尊重し、適材適所がベストなのでしょうね。
私のことは私にしかわからないのですが、
コツコツと頑張る力がある、
という評価が私のような子どもにはつきものでした。
人の評価を取り入れて自分を知る、
という思春期の時期でしたので、それが長所だと思って生きてきました。
でも、実は持続力は苦手で、
瞬発力のほうがある、ということが、今さらわかりました。
ちなみに、優しい子と書いて、
優子という名前をもらった私は、
その名を裏切らないように、と子どもながらに責任を感じていました。
それだけでも、子どもなのに何をそこまで…、と思うのですが、
その時はまさか行きすぎた考えだとは思ってもみませんでした。
想像力が豊かで、ファンタジーの世界や宇宙に思いを馳せること、が好きでした。
目に見えない世界を感じること、
現実から逃避して都合のいい想像をすること、
超常現象や、魔法というスキルが自分にも訪れるのではないかと、
考えるだけでワクワクし、生きていける気がしました。
良く言えば、自分のクリエイティブな世界に浸る、
悪く言えば、自分の殻に閉じこもる、
そんな子どもでした。
今なら、その理由がわかるのですが、
私にとって、外界のあらゆる情報や刺激が一期一会であり、情報の洪水に遭っては、
その場に集中できない、もしくは、
ボンヤリすることで情報をシャットアウトし、その場に集中しすぎて話題が変わっていても気がつかない、
のどちらかでした。
なので、ある意味天然キャラであったと思います。
本当の状況を自分でも掴んでいないまま、そのキャラクターの殻に守られながらなんとかやってきた感じです。
娘と違っていたのは、
私には同い年のきょうだいがいたこと(娘は一人っ子)と、
親が忙しすぎてうまく甘えられなかった、ということ。
私には、悲しい思いをしている人間がいること自体、私の苦しみでもありましたので
(それくらい人の感情に敏感である)、
親を悲しませるのはもちろん、お世話をしてくれていた祖母を困らせるのは、私にとっては御法度なことでした。
さらに、自ら、または人から寄せられる、
きょうだいとの比較や競争で、自分の気持ちを大事に思う余裕はありませんでした。
とにかく勝たないとしても、負けていない自分を維持するために必死でしたし、
競争からドロップアウトしたり、
突出した才能を生かしたりすることは、それはそれで周囲の平安を壊してしまうので、
引っ込み思案になるのも仕方のないことだったように思います。
そんなこんなで、私には青春の光など、あったのかどうか…?
私の自発的なアクションとして、体が弱く(今となればストレス病か?)、パッとしなかった自分を変えたくて、
中学校からスポーツ系の部活を選択しました。
毎日部活でクタクタになっていたので、それはそれで青春だったのかもしれないし、
人から見れば汗と涙のスポ魂人生に見えたでしょう。
でも、実際は、人間関係や身体の悲鳴に耐える毎日で、
ここは自分の居場所ではないな、と思っていました。
ただただ、所属することで得られる気分の高揚感や、
今この時を感じる、という他の刺激から自分を守ることのみに身を委ねて、
マイナスな面には目をつぶっていました。
友だちはいたのですが、結果的に(HSPによる影響)器用ではないので、
自分と気の合う友だちと一対一での付き合いを好み、特にグループに所属することはありませんでした。
それが寂しい時もありましたが、
無理にグループに入ったとしても、きっとそのなかで孤立感を感じたでしょうし、
違う自分を演じることに違和感を感じる毎日になったでしょう。
さらに、自分でいうのもなんですが、
正義の人、でしたので、
困ってる人や悲しんでる人がいれば無視できません。
グループに所属していると、そのグループの暗黙のルールに従わないといけません。1人勝手な動きをすると、もうそのあとには自分の居場所はなかったりします。
それくらい、女子というのは「嫉妬」でつながっているものでした。
さらに、自分に限界を設けたり、
レッテルを貼られることを好みませんでした。
1%でも可能性を信じていたい子どもでしたので、挫折をした時には自分を慰めるのが大変でした。
そうなることを避けるために、ずいぶん自分の気持ちをごまかしながら、生きていたように思います。
それはスキルだと、信じて疑いませんでした。
ここまで書いてきたことは、ほぼそっくりそのまま娘にも引き継がれていました。
DNAは裏切らない、ですね。自分が認めたくない影の部分に限って、引き継いでしまうものです。
認めたくないので、きちんと向き合ってこなかった部分ですし、
いつも、今度こそはうまくやろう!と、気概十分で外界に立ち向かっているわけです。
そこには、こんな自分がいけないんだ、という思いがベースにあります。
さらに、失敗、を最高に恐れていました。
これは、自分のことのみに限らず、
失敗する前兆がわかる、
失敗する前に手を打つ、という、前倒しで状況を取り繕うことが、常になっていましたし、
それが本気で得意技だと思っていました。
だからこそ、娘が同じように、
人間関係で挫折を経験し、学校という情報の洪水のような場所が苦痛になったことに対して、
ものすごい勢いで軌道修正をかけようとしていまいました。
私が娘くらいの年頃、またはその時代に、
自分の気持ちをごまかしてきたやり方までも引き継がせようとしていました。
今は、昭和ではなく、令和、
三年前は平成でしたが、時代は変わっています。
社会や家庭環境もちがい、さらには夫のDNAももちろん、娘は引き継いでいるなかで、
娘の、娘だけの人生における悩みごと、として、向き合う必要がありました。
本当に幸いなのは、
私の時のように、誰にも言わず1人で踏ん張ってきたのではなく、
もうしんどい、なんだか自分は人と違う、というサインを早めに出してきてくれたこと。
それを出せる場が、家庭内にあったこと。
いろいろ紆余曲折ありましたが、
「早くわかって良かったね」という言葉が今なら素直に受け止められます。
何度も言いますが、私など、
自分という人間の気質を否定せず、納得するのに45年もかかったのですから…。
以上、長くなりましたが、上記に書いた全てのエピソードが、
HSPの気質に当てはまるのでした。
次回は、娘の場合を書きたいと思います。