yuupytan’s blog〜自分が感じたことが全て*全て受け入れながら生きていく〜

今の境地にいたるまで、私が娘とともに歩んだ軌跡を記録したものです。

「コントロール」、について

特別な子の、子育てのコツ、

というものはあると思いますが、

 

まだ発達途上にある子どもを

 

ジャッジしたり、

コントロールしたり、

 

することは、

ナンセンスと言えます。

 

 

ついつい、

ジャッジ(あなたはいつも~だから)、

したくなりますが、

 

それは、親によるコントロール

だと思います。

 

 

ジャッジではなく、

分類(こっちのタイプなのね)、

 

コントロールではなく、

自分で乗り越えた、という体験を

与える、

 

というものならば、

実りある着地点が得られるのだと

思います。

 

 

言葉遊び、にも聞こえますが、

ニュアンスの違いを理解し、

意識するだけでも、

状況は変わってくると思いますし、

 

不安や悩みを抱えた子どもが、

心の中を整理し、

自分を取り戻して再起するまでには、

時間がかかる、

 

という、覚悟が、

親には必要なのかな、

と、今は思います。

 

 

 


「何とかしたい(してやりたい)」、

という思いは、

コントロールに繋がりやすいので要注意です。

 

学校の行事、

というのは、

その時、を逃すと、

もう二度とその年齢では体験できない、

人生の大切な思い出であり、

みんなと分かち合う貴重なものだ、

と、

信じて疑わない私がいました。

 

なんとか、

行事だけは参加させたい、

と、

娘のためだ、

と、

信じていた私は、

 

どのようにしたら参加ができるのか、を、

先生と一緒に相談し、

娘にも打診して、


おかげでいくつかの行事に、

娘は参加が出来ていました。

 


「よかったですね〜、娘さん頑張られましたね」


と、先生から言われ、


「はい、ありがとうございます!」


と、返していたのですが…。

 


それは、

 

本当に娘が願ってのことだったのだろうか…、

 

娘は満足したのだろうか…、

 

娘にとって最善だったのだろうか…、

 

これを、コントロール、というのではなかろうか…、


と、振り返っては反省しています。

 

 

 

大人が助けないと、

考えないと、

いけないんじゃないかと、

決して悪気はなく、誰よりも娘の幸せを願っていたはずなんですが…。

 

 

「状況によっては、参加しない、という選択肢を選ぶ子どももいます」

 

と、言われてもなお、

ぽかん、としていた私は、

心のどこかでは、

ホッとしたことを覚えています。

 

そう、

やっぱり私は、

自分の安心、のために、

娘を行事に参加させていたのかもしれないのです。

 

母である私の安心、

というレールの上を

娘には歩いて欲しかったのです。

 

 



人の気持ちはコントロールできません。


私の好きな海外ドラマ、

「ダウントンアビー」で、先週こんなシーンがありました。


育ての親から産みの親へと、子どもが渡されました。


育ての母親はあまりの悲しみに、

産みの母親のところから子どもを誘拐してしまいました。


父親は物分かりの良い人でしたが、

妻の気持ちまでコントロールすることはできなかった、


と悟ります。



こうしたらいいじゃないか、

こうするのが一番、


と思うことでも、

他人の心の舵取り、

をすることはできないものです。


それは親と子でもできないし、

夫婦間でもできないし、

先生と親の間でもできないし、

医者とクライアントの間でもできないし、

できていたとしたら、

その関係は、

どこかで歪みを生じることになるのでしょう。



私がPTA役員をやれば、

娘さんも登校するのでは…?

と言われたことがありますが、


そんな簡単なものでもないのです。


支援は、制御ではなく、

制御不能が当たり前なのです。

内発的な動機付け、が必要なのですね。




次回に続きます。

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 (家族でも、三者三様)