学校、親、地域、という支えあいのなかで。
発達障害と感覚過敏症は、
合併して現れやすい、
と、言われています。
だからかな〜、
と、
点が線になっていくのを感じていました。
娘の不登校理由として、
本当のところはわからないのですが、
娘が唯一口に出来たこと、といえば、
①教室内がうるさい
②給食が美味しくない、食べる時間が足りない、
③勉強がわからない、
この三点でした。
①はもちろん、他にも強く影響していたのが、
「聴覚過敏」、でした。
ざわざわしたところでは、
何かと集中できない、ようでした。
他にも、味覚、触覚、嗅覚などの鋭さが、
不都合な方向に働いてしまうのでした。
感覚が鋭い、
というのは、長所でもあります。
きっと何かのスペシャリストになれるでしょう。
それが、学校では、
抑制しなければやっていけない…。
「集団は苦手」
と、レッテルを貼ることになりました。
でも、そうしなければ、
集団生活からは、逃れられませんでした。
そうして、
娘の保健室登校、別室登校が、
始まりました。
孤立感を強めていた私は、
人生で初めて、
教会、に足を運びました。
私が宗教に助けを求めることになるなんて、
と、
抵抗もありましたが、
娘のためなら何でもやろう、
と、
無宗教の私は、その枠を拡げてみることにしました。
教会には、何人かの子どもたちが来ていました。
一緒に食事をする時間もありました。
誰かと一緒に時間を共有する、
という機会が、
そこには存在していました。
牧師さんの話がありました。
まだ何も信じているわけでもないのに、
涙が溢れてきました。
「ありのままでいい」、
「そのままで、愛されている」、
という言葉に、
心が動かされ、
「私は、私を許し」、
「娘はありのままでいい」、
と、
思えるようになりました。
教会のほかに、
「親の会」にも足を運ぶようになった私は、
とにかく、
他者に話を聞いてもらい
他者の話を聞いて、
ただ、それだけでずいぶん心が楽になっていくのを感じていました。
それからの私は、
積極的に、学校、教室以外の場所を、
娘の居場所としてあることを、
望みました。
公的な支援である、通級指導教室にも通いました。
そして、
親の会から発展し、フリースクールのオープンにも携わりました。
親の会では、
「発達障害」についてや、
「合理的配慮の解釈」などについても、
学びが進んでいました。
もう、医療機関は
娘も私も、
必要とはしていませんでした。
学校に対しても、
娘の意見や選択を優先して、
一緒に待つ姿勢を、
お願いすることができていました。
次回に続きます。
(隙間から射す光)